私はクソウヨだが撃沈された記憶が御座いません。
皆さんざっと読んでみたください。
このおっさんなのかおばさんなのかはわかりませんが、この御仁は当時日本が今の生活水準であったとでも思っているのでしょうかね。
いいですか皆さん、当時は日本人も貧しかったのですよ、小作もいたし生活に窮して夜逃げするものもいたのですよ。
日本人自身も貧しかったのに朝鮮人に贅沢させられたとでも思っているのでしょうか。
いいですか、明治も終わりごろでも田舎に行けば靴を買うことも出来ず、裸足か草鞋だったのですよ。
日韓併合は1910年は明治43年です。
併合の時も庶民は貧しかったのです。
朝鮮人が貧しかったからと言って何故に日本が搾取したと言えるのかと。
簡単なんですよ。
朝鮮総督府が黒字だったか赤字だったかでわかるでしょ。
そう大赤字なんですよ。
政府からの交付金だけでは足りないんですな、だから朝鮮総督府は赤字公債まで出してたんですな。
一番下に書いてあるんだけどね。
朝鮮の資産は元々朝鮮にあるものが元だとか。
アホか。
朝鮮に何があるんだ言ってみろ。
石炭や鉄鋼石はあるが量自体は少ないんだよ。
ファン・ジャンヨプがそう言ってるぞ。
北は資源小国だってな。
こいつにはメールを送っておりますがいまだ返事がありません。
搾取してなんで大赤字なのか聴きたいもんだな。
不条理日記
http://himadesu.seesaa.net/article/7003399.html
2005年09月17日
「嫌韓流」批判・・・続編 植民地支配の諸相
つーかこういうのは今まで散々ネットで議論し尽くされ、クソウヨどもは撃沈していったんだけどねえ。
あのマンガの作者は、自分にとってあま~い(笑)サイトしか見ていないようだね。
「たしかに欧米列強は植民地に対し過酷な収奪と搾取を行っていました
しかし・・・
日本統治下の朝鮮は状況が全く違ってよ!
日本は朝鮮に道路・鉄道・電力など数々のインフラを整備
さらに近代医療の導入と農業生産力の向上により
人口を倍に増加させ奴隷制度を廃止し教育制度を充実してハングルを普及させた
これらのどこが「世界一過酷な植民地」なのかしら?」
要するに日本がやったことが朝鮮人の生活を向上させたと主張したいのだろうが、そんな単純に言えることではない。
★植民地の「インフラを整備」をしたのは日本だけではない。そもそも「インフラを整備」を行わなければ植民地からの「収奪」が円滑に行えないだろう。植民地の天然資源や農産物をどうやって本土に、あるいは港まで運ぶのか?作者はこんなことすら分からないようである。
それに、言うまでもなく土木作業に直接携わったのは朝鮮人であり、併合の初期には「夫役」という奴隷労働が強制されていた。
無報酬の土木工事を強制されただけでなく、道路建設予定地に農地を所有している者は何の補償もなく没収され、建設地から離れた場所に住む者は貧しさの為野宿を余儀なくされたのである。
また、朝鮮人労働者の賃金は概して「内地人」より低額だった。
1936年当時の朝鮮半島に於ける、
「左官」の平均日給は、
「内地人」が 3.37円、 朝鮮人2.1円、
「石工」は「内地人」が 3.47円、 朝鮮人2.09円、
「木挽」は「内地人」が 2.96円、 朝鮮人1.82円、
「平人足」は「内地人」が 1.43円、 朝鮮人0.77円、
「土方」は「内地人」が 1.83円、 朝鮮人0.93円、
「下男」の平均「賄付月給」は、
「内地人」が 23.0円、 朝鮮人11.22円、
「下女」の同上は、
「内地人」 15.0円、 朝鮮人7.66円だった。
(「昭和十一年朝鮮総督府統計年報」P-242~245より)
植民地では低廉な労働力の供給が可能なので、「インフラを整備」も「本土」より比較的容易であろう。これは朝鮮という植民地も例外ではない。
★(よそのブログにコメントしたことだが)「近代医療の導入」が行われたのは事実。日本支配下の朝鮮では当時世界的に流行していたコレラが強く警戒され、また種痘も実施されていった。
もっとも、半島内の病院・医院に於ける来院患者数は、朝鮮人よりも日本人の方が多く、人口比率から見ると30倍以上になるというデータがある(岩波ブックレット552「日本の植民地支配」P-24 より)。朝鮮人に対する医療は充実していたとは言えない。
★「農業生産力」が「向上」したからといって、一般の朝鮮人はその恩恵に浴したわけではないようだ。一例として朝鮮の米生産高に関する統計を示す。
このように併合直後の1912年には1157万8千石だった米の生産高が、(二つの表の中では)一番多い1937年には2679万7千石に達している。
しかし日本への移送量も増加傾向にあり、朝鮮人一人当たりの米消費量は増減があるものの、1912年の0.7724石を越えるデータはない。
★つーか朝鮮総督府はどのようにして人口を倍加させる政策を実行したのか、ご教示願いたいものである。だいたい「食うに困るような状況でも人口は増加しうる」ことぐらい常識ではあるまいか?
「朝鮮人の一般生活程度はわが国の奈良朝時代のそれに相当すると唱へた学者すらあるやうに、彼等の生活は一般的標準から見て頗る低く、殊に下層階級の生活は悲惨を極めている。いふまでもなく現時の経済的不況は朝鮮に於いても深刻なる影響を及ぼし、朝鮮下層民の生活は極度に逼迫してその行き暮れた生活の姿は随所に見出される」
(大阪市社会部労働課 社会部報告177号「朝鮮人労働者の近況」1933年――朴慶植/編「在日朝鮮人関係資料集成第五巻」(三一書房)P-780~784)
「四月乃至五月、貧農は米も麦も勿論売り尽くし、蓄への粟も勿論食い尽くし、畑作が収穫期に入るまでは、草の根を噛み、木の皮を囓って飢えを凌ぐ。
朝鮮農家の窮民の固有の此の悲惨は恐慌期に入りて倍加され、三倍化された。殊に六年(1931年)の凶作恐慌の後には、もう二月三月から『春窮』が始まり、農民は鋭い飢餓に虐まれ、餓死の恐怖に駆られている。困難は、殊に凶作であった威鏡北道、慶尚南北道等に於て深刻だ。威鏡北道の如き、実に63%の減収なのである。死か、闘争か、貧農は恐慌の深化と共に起上る。六年度の小作争議は、その規模といひ、その性質といひ、当局を脅威するに十分だった」
「慶北栄州に郡浮石、丹山の両面は数年続けて凶作にあり、面民は殆ど生活困窮のドン底に陥り殊に端境期が近付くに従って彼等細農の生活状態は一段悲惨の度を加へ、食ふに糧なく一日一食の粥にもありつけず、草根木皮を漁って歩くといふ餓死線を彷徨う七十戸、三百三十二人に達している」(東洋経済新聞社「日本経済年報第七号」)
「村落に入ると丁度正午ごろである、道ばたのとある一軒に立ち寄って見ると、家族五人が力なげに寝そべったまま、ムシャムシャと頬張っている。『何か』ときいてみると、稗糠に少量の大豆と、つぶし胡麻を混ぜたものだという。家人は何れも目の周りが紫色にふくれ上がり、全身に水腫が浮いている。話す言葉も全く力がなくて、丸で蚊がないているでもいるような弱さだ。亭主らしい四十がらみぼ男が、物憂げにいずまいを直してポツリポツリと語るところによるとこうだ――――草根木皮のあるうちはこんなに衰えはしなかった。それもいつか食いつくしたので、詮方なく今は、稗糠に大豆と胡麻を混ぜた粥や栗糠の粥、米糠などを常食にしているが、それでもまだ上等で、時には大根のひげ根の部分や、葛根のたたき粕を細かく砕いたもの、玉蜀委の芯の部分を包丁でそいだ粉などを、一所に煮て食って飢えを凌いでいるというのだ。そのうちに子供が腹痛を訴えて、大声に泣き出した。すると男はチェーッと舌打ちをしながら、危なっかしい足どりで泣く子を抱えたまま戸外に出て行って佇んだ。怪訝に思って彼の仕草を見ていると、尺あまりの棒の先で、子供の尻を突いているのではないか、やがて子供はその男につれられて戻って来た。
男はまた話しをつづけ――――粟糠を食うと大人はそうでもないが、子供は通じが悪くなり、腹を痛めていつもあの通りに泣くし、米糠も子供は胃腸を痛めて困ると訴えるのであった」(「大阪毎日新聞」1933年6月17日付)
「わずかばかりの畑に植えた麦でさえ、成熟するまで待ち切れずに、未だ実もかたまらない乳熟期に刈取って精白し、さらにこれを粉にして粥を作ってすすっている有様だ。それでもまだ麦が出来るようになれば多少とも潤うけれども、4・5月のいわゆる春窮期には、草の芽を摘み、木の根を掘り、木の皮を剥ぎ、アカシアの花を取って、ヤッと生命をつないでいる。だから4・5月ごろは、だれもかれもが弾力なく膨れ上がって、栄養不良となり、むさ苦しいオンドルに水ばかり飲んで寝ころんでいたものである。ある農業指導員から『農民の最も多忙な田植のいまでさえ、粟飯でも三度戴いているものはほんの僅かでし
ょう』と聞かされて驚いた。各部落をぐるぐる廻って歩いている郡農家の枝手さんの話によると、『郡内のどの部落も、一年中粟さえおがめぬ者が、約一割は確実にありましょう、地主から出来秋には一倍半にして返すと言う、話にならない高利で籾を借り、市日に粟にでも代えて、粥でもすすり乍ら、かすかす春さきを過ごしている者は、三割以上もあります。それでもこんな不況になっては、地主も貸したところで、秋になって返済するかどうか疑問だから、一斗の籾だってなかなか貸してくれなくなり、どん底の農民達は増加する一方です。地主がこんな心配するのもまた無理からぬ点があるんです。昨年の秋なんか、出来秋になって、籾を安値でこっそり売って、一夜のうちにどこにも知らさず、一家をまとめて逃げてしまったのがぼつぼつありました。この秋なんかもっとふえるでしょう。こんな全く形容もできないような、みじめなどん底生活をしているのですから、金と云うものは鐚(ビタ)一文)だって手にしたことのない農家だって、決して少なくありませんよ。粗末な壁が到るところ落ちて、サバリが四つ五つころがっているほか、何にもないと云う農家はざらにあります』との話に、記者は聞きしにまさるその貧窮状態に戦慄させられた」(同上1933年6月21日付)
(以上、朴慶植/著「日本帝国主義の朝鮮支配・上巻」より)
このような朝鮮農民の生活実態は、第六代朝鮮総督の宇垣一成の談話が立証している。
「就中、最も窮乏を訴へつつある現下の農村に付て之を見ますならば、其の約八割は小作階級に属する細農を以て占めて居ります。此等は過去多年の秕政の結果、搾取誅求に苦しめられて来たのでありまして、既に其の心境は著しく荒み、所謂酔生夢死、奮発心も、感激性も銷磨し、希望も理想も意気もなく、其の日暮しの悪習に堕し、自ら意識して、其の生活に改善工夫すると謂ふやうなこともなく、全く時代遅れの環境に甘んじ、年々歳々食糧の不足を訴へ、高利の負債は逐年増加するのみならず、収穫時期には債鬼殺到して、彼等全年の努力も、或いは借入食糧の返済となり、或いは負債利子の償還に充て、餘す所なく春窮即ち端境期に於ては、食糧不足し、山野に草根木皮を漁り、辛うじて一家の糊口を凌ぐが如き、惨目なる状態であって、此等は年の豊凶に依り、素より一様ではありませんが、其の概数は農家総戸数の四割八分約百二十万戸に及ぶ年も在つたのであります。換言すれば、朝鮮の農民中には、過去に追われ、現在に苦みて、将来を楽むなどは、思ひも及ばざるものが多いと申さねばならぬ。 此の多数の恵まれざる農民の存在は、正しく朝鮮統治の一大憂患であつて、其の生活と向上とを放任しては、朝鮮の開発は、断じて望み得ないのでありまして、之が対策は統治上、最先最急の要諦であり、且其の根幹を為すものと信ずるのであります。」(久間健一「朝鮮農政の課題」昭和18年刊 P-45~46)
「宇垣一成日記 2」 みすず書房 (「関釜連絡船」1988年 金賛汀 朝日選書より)
(朝鮮総督の日記から)
咸鏡南北、江原道(朝鮮北部)以外にも飢餓に瀕する者少なからずして僅かに草根木皮によりて露命を繋ぎあるものを聞き、痛心に堪へずして当路者に糺せば、彼氏曰く、『朝鮮にては左様の事は珍しくもなく今頃になれば毎年各地に現はるる事象である。今ひと月もすれば木の葉も出て草も生ずるから夫れによりて収穫期まで何とかしていく』とて深く配慮するの様子もなかりし。(昭和7年3月31日付)
(これは「大日本史番外編朝鮮の巻 植民地統治の検証1 飢餓輸出」よりコピペ)
ところで「大日本史~」では「宇垣総督の農村振興運動」が功を奏したように述べているサイトをリンクしているが、「日本帝国主義の朝鮮支配・上巻」では、この政策の顛末について説明している。
農民の生活に心を痛めていたであろう彼は、「自作農創定」という計画を立案した。
「小作人に土地所有せしめ、之を中核とし、思想経済共安定を欠く農村の更正を図り、兼ねて離村浮浪の弊を防がんとす」
この計画は、小作農一戸あたり農地購入資金660円を融資し、5反(約0.5ヘクタール)の農地を購入させ、長期間かけて小作農全てを自作農に昇格させるという計画で、1932年から実行される予定だったが、資金難であっさり頓挫し、「単なる農政的自慰」と酷評された絵空事に終わったという。そして宇垣は1936年、総督の職から退いている。
その後の朝鮮農民の生活については記すまでもない。ある現地レポート(1944年)も、朝鮮人農民の困窮ぶりを綴っている。
「二、都市及び農村に於ける食糧事情」
「朝鮮に於ける都市及び農村の食糧事情は深刻のものあり、其の実例として朝鮮に旅行しる時汽車の窓より望むるも沿線の林野に於ける松木の皮を剥ぎたるもの相当見受くることがあるが沿線にあらざる深山には尚多く近き将来に於て朝鮮の松木は或は枯死するのではないかと憂慮する人達も相当多い様である、併合以来故寺内総督を始め歴代総督は朝鮮の山林行政に相当力瘤を入れたる結果最近に至りては朝鮮の林相もようやく良好にになつて来たが昨今の食糧事情に依る此の現象は実に憂慮に堪えざるものあり」
★「奴隷制度を廃止」させたというのは近代国家として当然のことだろう。(といっても「本土」同様、人身売買や借金のカタに身元を縛ることを根絶出来ていたわけではない)
ところで併合後も民衆の生活は向上せず、小作農が増加していった(こちらを参照のこと)。
また併合後は小作料が概ね50%程度に上昇し、さらに各種の税が設けられて貧しい農民を苦しめていた。
小作料過大にして、細民の生活愈困難なり、政府は地主の横暴を制限せられたし(間島移住民の如きも之に基くもの多し)
税金の種類夥多にして増税に次ぐに新税を以てし、糊口に窮するの貧民亦富豪と同じく課税せられ、
其の額は異れりと雖も貧民に於て却て苦痛を感ず、斯の如き公平なるが如くして決して公平にあらず。
(「大正八年 朝鮮騒擾事件状況」より、慶尚北道の農民の不満)
また、村落が共同で利用していた水源地からは「水税」が徴収されることになった。元々朝鮮の農民は、村落共同の掘り井戸や溜池を利用して汲み上げ灌漑を行ってきたが、大地主が中心となった「水利組合」が作られると、一反(約1000㎡)当たり6円10銭の「水税」を要求され、払えなければ田畑を明け渡すことになり、大地主の土地専有が促進された。
・・・たとえばアメリカでは奴隷が解放された後も、多くの貧しい黒人は生活のため、土地を離れることは出来なかった。奴隷ではなくなったが小作農として雇われる以外になかったのである。
小作農とは決して奴隷ではないが、耕作地の所有権は持たず、貧しい生活に甘んじていた。土地を捨てて「火田民」(山中で焼畑農業を行う者)や「土幕民」(路上生活)になることが出来る点だけ、「農奴」よりは自由があると言えるが。
それに上述したが併合の初期には「夫役」という奴隷制度があり、また日中全面戦争以来、朝鮮人は半島内の工場や鉱山に動員され、あるいは本土やサハリン、南洋に強制連行された。植民地朝鮮にて「奴隷制度」が「廃止」されたとは言えないのである。
★「教育制度を充実」させたといっても、朝鮮人の子供の小学校への進学率は、大戦末期に至ってやっと6割に達した程度である。また植民地朝鮮での教育は日本語に重点が行なわれていた。
「普通学校教科課程及毎週教授時間表」(「朝鮮教育要覧」1919年1月、朝鮮総督府内務部学務局)によると、
国語(日本語)の授業は1年生から4年生まで週10時間だったのに対し朝鮮語は、
1年生が週6時間、
2年生が週6時間、
3年生が週5時間、
4年生が週5時間だった。
さらに1938年には朝鮮語は必須学科から外されている。(あのマンガには朝鮮語を選択しなかった学校の校長は朝鮮人が多かったという部分もあるが、それが朝鮮総督府の教育政策を免罪できるわけではない。強制連行についての鎌田沢一郎の述懐に対する解釈と同様)
それに言うまでもなく朝鮮の学校でも「教育勅語」が斉唱させられ、神社参拝、天皇崇拝が強制された。このような「教育制度」が「充実」したことに、朝鮮人にとっては何か意味があるのだろうか?
「それらに使われた資金は全て日本からの持ち出しなのよ!」
植民地のインフラ整備の資金を支配国が負担するのは当たり前だ。どうかしたのか?
「何が持ち出しだ!
当時の朝鮮は土地を奪われ農作物を奪われ地下資源を奪われ
日帝に滅亡寸前にまで追い込まれたんだ!」
「ではなぜ朝鮮半島が日本から独立するときに莫大な資産が残っていたのでしょうね?
(日本が朝鮮に残してきた資産 約47億ドル 軍事資産と個人資産を除く 在外財産調査会調べ)
(北鮮約30億ドル 南鮮約23億ドル 計53億ドル 軍事用資産を除く 総司令部民間財産管理局調べ)」
「そ そ それは朝鮮半島に元からあった資産だ・・・」
「滅亡寸前だった朝鮮に?」
朝鮮に於ける日本の資産については、上記のように植民地支配体制下に於いて民衆からの搾取、及び天然資源の利用によって構築されたものである。またその一部については「朝鮮半島に元からあった資産」無しには成り立たないものだった。空中に建物を作ることはできないからねえ(笑)過去ログを参照のこと。
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