2011年9月1日木曜日

これこそ甘えですね

よく韓国朝鮮人は日本に甘えると言われますが、これが典型でしょうね。
かけていない年金が貰える筈もなく。
当たりまえですがな。

毎日ですから何でも日本が悪いように書きますね。
何度も立ち退きを迫られたなんてあなた。
何故立ち退きを迫られたのか書けよおい。
公有地に勝手に住み着いたからでしょ。
だから立ち退きを迫られたんでしょうが。
それで可哀想なのかよ、それで税金払ったわけないだろうがよ。

北朝鮮に息子がね。
誤解しないでくださいよね皆さん。
北朝鮮では飢えた者ばかりだなんて思わないでくださいよ。
今も飢えた者は多くいますが、一方で贅沢しているものもいるのですから。
例えば帰国者で日本にいる親族から送金のあるものは贅沢してますよ昔からね。
そのほかには貿易をやってるものとかね。
中国との貿易をやっているものなんかは子や孫の誕生日にケーキ食べてたりしますから。
北朝鮮にもすごい金持ちはいるんですよ。

敗戦後の事。
三井家では連日米軍の将校なんかを呼んでパーティなんかやってたんですよ。
厚いステーキがいくらでも出されていたんですから。
どこの国でもどんな時でも同じですよ。


このばあさんの息子は成功したんでしょうかね。
母親呼ぶなんて成功してないと呼べませんよ。

まあ、在日韓国朝鮮人はこのばあさん見習ってみんな帰国しなさい。
きっと幸せな暮らしが待ってますよ。
年金くれない日本なんかにいてどうすんだよ。



【国内】在日女性、涙の旅立ち-無年金問題で敗訴、77年間暮らした日本を後にし北朝鮮へ★2[08/31]

- ニュースUP:在日女性、涙の旅立ち=京都支局・古屋敷尚子 <おおさか発・プラスアルファ> -

 ◇77年の営み、認めてくれなかった日本

 90歳を迎えた1人の在日コリアンの女性が今月上旬、77年間暮らした日本を後にし、朝鮮半島に帰った。国籍を
理由に老齢年金を受給されないのは差別だとして国を訴え、敗訴した後のことだ。支援団体によると、大阪、京都、
福岡の3訴訟の原告計20人のうち帰国した人は初めてという。女性の最後の選択への思いとは--。

 ■「別れはつらい」

 女性は京都市南区に住んでいた高五生(コオセン)さん。離日を2日後に控えた今月8日、利用していたデイサービス
施設で、親しい友人やスタッフら数人と別れを惜しんだ。利用者には在日コリアンが多く、「帰りたくても帰れん人もいる
から」と、にぎやかな催しは高さんが拒んだ。高さんと友人たちは「いつまでも元気でね」と声をかけ、抱きしめ合った。

 高さんは当日の10日朝、親類に付き添われて関西国際空港に向かった。韓国・済州島出身だが、北朝鮮の平壌
(ピョンヤン)で暮らす息子家族を頼って中国経由で北朝鮮に入国する。身の回りの物だけを詰めた小さな手荷物に
家族や友人らの写真数枚を入れた。「みんなにこの年までようしてもらって。私の周りの日本人はみんなええ人ばかり。
別れるのはつらい……。もう日本には戻れんから」。小さくつぶやき、目に涙をためた。

 済州島で5人姉妹の長女として生まれ、13歳の頃に大阪で暮らす父を頼って来日した高さんは、「差別なんて受け
たことはない」と言い切る。言葉通り受け取ってよいのかは分からないが、周囲とはよい関係を築いてきたようだ。

 15歳年上の朝鮮人と18歳で結婚した後、職を転々としながらたどり着いた京都・西陣では、日本人夫婦宅を間借り
した。来日前に学んだカタカナで筆談した夫婦について、「奥さんに頼んで浴衣を着せてもろうて……」と懐かしそうに
話す。

 戦後すぐ帰国する機会もあった。日本の敗戦で朝鮮が独立を回復、「すぐにでも帰れると思った。仲間もバンザイっ
て大いに沸いた」。気持ちは高ぶった。父親や、高さんとともに来日した妹は帰国を選んだ。しかし、戦争中に始めた
鉄回収業が軌道に乗り始め、食べるに困らない稼ぎがあった。朝鮮半島に戻っても生活基盤はない。ためらい、決断
できなかった。その後も、朝鮮へ帰る人を乗せた浮島丸沈没事件や済州島の政情不安などを聞く度、「様子をみて
良かった」と自分に言い聞かせた。

 ■無年金への怒り

 迷った末とどまった日本は、安住の地にならなかった。

 戦後、夫は民族活動に没頭し、家族の生活は高さんの肩にかかった。鉄回収業自体は順調で、職人30人を雇って
いた時期もある。だが、「商売が軌道に乗ると、行政から『立ち退け』って言われた。何度も何度もや」。結局、立ち退き
に応じたことが2、3度あった。

 強硬な姿勢をのぞかせた役所。80歳を超えて、その行政、国と法廷で正面から闘うことになる。04年に無年金訴訟
に参加した。「どうせ(裁判で)言っても(年金は)もらわれへんやろ。それでも、苦しい時代を日本で生き抜いたことを
国に認めてほしかった」と言う。息子は朝鮮高級学校3年の時、制止を振り切って北朝鮮に渡っていた。約40年前に
夫に先立たれてからは1人暮らしだ。それでも70歳を過ぎて生活保護を受け、生活は成り立っていた。参加を決意した
のは同年代の在日コリアンの困窮を知っていたからだ。「お風呂に行くにも子供にお金をもらわなあかん。長年暮らして
税金払うて、どうしてそんな生活をせなあかんのか」

 07年2月の判決日。「小さな期待」が心の隅にあった。しかし、京都地裁は国の裁量権の範囲内とし、訴えを退けた。
「腹が立ってたまらんかった。全く認めてくれないなんて」。高裁でも敗訴し、09年2月に最高裁も1、2審を支持。
約4年にわたる闘いは終わった。

 ■息子を頼って

 いま息子は60歳を超えた。北朝鮮には高さんの孫が3人、ひ孫も3人おり、数年に1度は会いに行く。3年ぶりに
訪ねた今年6月、直前に自転車で転んで車椅子に乗って来た高さんを見て、息子は「面倒見るからこっちに来いよ」
と言った。衰えは自覚している。帰るならこれが最後の機会だと思った。

 京都訴訟の元原告5人のうち1人は死亡、高さんを除く3人は京都で暮らすが、高齢化が進む。元原告の女性に
帰国を告げると「行かんといて」と引き留められた。だが、息子家族と暮らしたいとの思いは断ち切れなかった。敗訴も
背中を押した。「裁判も負けてしもうて。終わったんやな」

 高さんが通ったデイサービス施設で働く鄭明愛(チョンミョンエ)さん(41)は、高さんに訴訟に参加するよう頼んだ
人だ。「控えめなオモニ」の高さんが京都地裁判決後の記者会見で、「本当に腹が立ってたまりません」と初めて憤り
をあらわにした姿が目に焼き付いている。「判決後は相当落ち込んでいた。高齢だし3年ぶりに息子さんと会って、
一緒に暮らしたいという気持ちが強まったのでは」と話す。

 高さんは国籍に関係なく周囲の人を愛し、周りもそんな人柄に引かれてきたのだと、その半生を聞いて思う。そんな
高さんが、失望や怒りを抱えたまま日本を後にした。在日1世の高齢化が進み、無年金のまま亡くなる人は相次いで
いる。この問題を放置していいはずはない。

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 ◇在日コリアン高齢者無年金問題
 日本の植民地時代に渡日した朝鮮人は、1952年のサンフランシスコ講和条約発効で日本国籍を喪失した。一方、
61年施行の旧国民年金法は国籍条項で年金加入を日本国民に限った。この条項は82年に撤廃され、86年の改正法
で、国籍条項による未加入期間を資格期間に算入できる措置が取られたが、当時60歳以上の人は対象外となった。
日本国民であれば受給できた年金の相当額の支払いなどを求め、03年以降、大阪、京都、福岡の在日コリアンが
各地裁に提訴。大阪、京都両訴訟は敗訴が確定。福岡訴訟は福岡高裁で係争中。

(*以上です。)


ソース : 毎日新聞 2011年8月31日 大阪朝刊
http://mainichi.jp/select/opinion/newsup/news/20110831ddn013040032000c.html
前スレ : 
【国内】在日女性、涙の旅立ち-無年金問題で敗訴、77年間暮らした日本を後にし北朝鮮へ[08/31]
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1314787585/

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