2010年8月31日火曜日

こうあるべきだを形にしてみました

百済と新羅は日本のパシリでした。

魏志倭人伝には、狗邪韓国(加羅)を倭国の北限とする記事があり、
考古学的にも当地の3世紀の遺跡には、倭系遺物の出土が多い。
好太王碑文に倭国が海を渡って、百済・新羅を臣民にしたとの記述
が見られる時期に、 朝鮮の正史「三国史記」に、百済が皇太子を、
新羅が王子を、倭国に人質に出した記事がある。
「日本書紀」も同様で、400年前後に倭国が朝鮮半島南部に勢力を
広げたことで一致。 宋書には、5世紀後半に、倭国に新羅・任那
などの軍事権を認めた叙任がある。
これらの文献資料は、全て調和的。
考古学的には、畿内発祥の埴輪を並べた前方後円墳が、古墳時代
中期~後期(5~6世紀) になると、朝鮮半島南部にいくつも
見られるようになり、倭国の勢力拡大を裏付けている。
と言うわけで、全く問題ないのである。

朝鮮人の、朝鮮人による、朝鮮人のための正史、「三国史記」
には、百済と新羅が日本のパシリ国家で、しかも新羅は日本人
によって建国された、と書かれていますが


埋めた前方後円墳、発掘しなおせよ。
遺物は語ると思うよ。

でも嘘をつくことになんらの嫌悪も湧かんのかね。


【日韓】 韓日交流の古代史~歴史は歪曲できても遺物は語る、日本の歴史の真実を[SBSスペシャル] [08/30]

[SBSスペシャル]①朝鮮侵略の名分「神功皇后伝説」

1592年壬辰倭乱前夜、倭寇は神功皇后の三韓征伐を思い出させて戦意を固める。彼らをそのよ
うに沸き立たせたものは何だったのだろうか?日本の朝鮮侵略合理化の中心には「神功皇后伝
説」がある。1200年前、新羅と百済を服属させた天皇の皇后。

これがいわゆる任那日本府説の実体だ。神功皇后によって倭国は歴史的に三韓の上国になる。
そしてこのような歴史はまた侵略の名分に席を占める。三韓征伐と征韓論、朝鮮征伐は全部一つ
の論理に連結される。それがすなわち歴史同一視、侵略の名分を過去から探すものだ。


[SBSスペシャル]②新羅が日本朝貢国?偽りの歴史

歴史は真実だけしか記録しない。しかし時に歪曲された歴史が事実として受け入れられるように
なる場合もある。西暦753年、唐の首都長安でアジア各国の使節が唐の玄宗のもと新年祝賀会
のため集まった。この祝賀会式で新羅と日本が席次争いをしたと<続日本記>は伝える。

日本使節、古麻呂は、新羅はかなり以前から自分たちの朝貢国であるとして座席を問題にした。
結局、古麻呂は東側一番にあった新羅使節を引き下ろして日本がその場を占めたという。当時の
日本としては新羅を相手にした痛快な外交的勝利であった。しかし疑問点はこのように重要な事
件が<続日本記>の他にどんな資料にも記録されていない点だ。

さらに他の資料によれば、問題の祝賀会式に日本使節は出席さえしなかった。結局、古麻呂が自
分の業績のために事件を歪曲したという結論に至る。

[SBSスペシャル]③新しい王朝、彼らは誰だったのだろうか?

韓国から日本列島に入る関門都市、福岡。そこで日本初の稲作の跡を見ることができる。紀元前
3世紀、弥生人は水路を活用する洗練された農業技術を発展させた。彼らは誰だったのだろうか?

当時、狩猟生活をした縄文族とは顔の形から異なる弥生人は、発掘された骨の80%以上が大陸
人と似ている。韓半島から渡ってきた最初の農耕定着民だったのだ。日本の大阪には世界最大
規模の墓、仁徳王陵がある。弥生時代が退いて古墳時代が到来して残った遺跡だ。支配者の権
力を端的に見せるこの墓にはもう一つの疑問がある。

それならなぜ、以前になかったものをわざわざ作ったのだろうか?1948年、江上波夫は新しい王
朝の出現という学説を提起する。北東アジア系騎馬扶余族が韓半島を経て日本に入り、支配勢
力になったという。仁徳王陵の主人は以前の王朝とは全く違う血統の征服王朝であった。結局、
万世一系、純粋な血統の歴史を主張した日本の歴史は偽りだった。



関連スレ:
【日韓】 韓日の自己中心的歴史観が歴史歪曲を産む~SBSスペシャル「韓日併呑100周年特集歴史戦争」[08/26]
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1282827487/


[SBSスペシャル]④遺物は語る、日本の歴史の真実を…

歴史は忘れられ歪曲できるが古人の遺物は真実を語る。騎馬民族扶余族は中国を離れて韓半
島、百済で勢力を拡張させる。そして一部勢力が南下して伽耶を占領し、日本列島の内陸深々と
進出して支配勢力を形成したのだ。何がこれを証明するだろうか?

日本固有と考えられた矛の端に刺すはめ込み式銅器が金海(キムヘ)で発掘された。韓半島と日
本の関係が深く連続していたことを証明する。もう一つの重要な遺物に七支刀がある。百済の勢
力が強盛だった369年、太子は倭王に七支刀を送る。日本書紀はこれについて百済王が日本天
王に献上したと記録する。しかし勢いが隆盛した百済の立場で、倭国の王に服属を誓う理由がな
い。かえって日本文化の新しい主役として百済が日本列島の中心に立っていたのだ。



ソース:http://news.sbs.co.kr/section_news/news_read.jsp?news_id=N1000788298
ソース:http://news.sbs.co.kr/section_news/news_read.jsp?news_id=N1000788308
ソース:http://news.sbs.co.kr/section_news/news_read.jsp?news_id=N1000788310
ソース:http://news.sbs.co.kr/section_news/news_read.jsp?news_id=N1000788310

以上

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